2014年2月17日月曜日

戦争と言う名の自然災害 - 日本の戦後が終わらないわけ

内田樹氏のブログで第二次大戦後、東京裁判が日本に半永久的に強制したもは、米国への従属とアジア近隣諸国への謝罪の二つであるとしている。これに対して戦後の政治家はこの2つのうちのどちらかに重点を置くことで振り子のように振れながらもバランスを保ってきたのかもしれない。
東京大学教授の加藤陽子氏はその著書で吉田健一氏の「ヨオロッパの人間」の一節を紹介している。「戦争とは、近親者と別れて戦場に赴くとか、原子爆弾で人間が一時にあるいは漸次に死ぬとかいう事ではない。それは宣戦布告が行われれば何時敵が自分の門前に現れるか解らず、またそのことを当然のこととして覚悟しなければならないと言うことであり、同じく当然のこととして自分の国がその文明が亡びることもその覚悟のうちに含まれることになる。」と紹介している。
戦前戦後の政治家が先の戦争について、日本人の覚悟として戦争をそのように考えていたかと言うとそうは思えない。
陸続きで他国、他民族との戦争を繰り返してきた大陸諸国、とりわけ欧州各国を率いる為政者たちの考える戦争と日本の為政者の考える戦争は全く次元の異なるものだったのかもしれない。また、この違いが日本人が戦後を終わらせることのできない大きな原因なのかもしれない。
日清日露と第1次世界大戦、日本の固有の領土が戦場になることはなく、第二次世界大戦でも固有の領土との認識の薄い沖縄を戦場とすることはあっても、本土が戦場になることはなかった。
原子爆弾の投下や焼夷弾による空襲などで本土の被害は想像を絶するものではあったが、直接敵の軍隊と対峙したわけでもない。
日本人にとって、外国との戦争と言うのは天災の一つに過ぎないのではないかという思いにとらわれてしまう。


2013年6月2日日曜日

「孔子と老子」と「ドラッカーとミンツバーグ」

NHK制作の「100分で名著」で老子が取り上げられていた。若いころに一度読んだ事がある気がするが、改めて解りやすい解説でその概要が理解できた気がする。

孔子についてはメジャーで、誰もが論語や儒教と言う言葉やその意味をなんとなく知っていて、とても真面目で良い事を言っていて、この人の言うことにはみんな逆らえない。それに引き換え老子はちょっと斜に構えていて、少しアウトサイダー的な感じがする。孔子に対するアンチテーゼとして、「そうは言っても世の中、誰も彼もがそんな同じ様に頑張れるわけじゃないだろう。人それぞれって事で良いんじゃないの?」と言いたいようだ。

この組み合わせ、どこかで見たな、と思ったら、ピータードラッカーとミンツバーグの二人の関係に似ている。マネジメントやリーダーシップに対するアプローチが、正統派としてマネジメントの在るべき姿を追求したドラッカーに対して、戦略サファリなどをまとめ上げたミンツバーグが、色々あるよね、と言っているようだ。

2011年11月5日土曜日

TPP考

TPPについて言えば、賛成派も反対派も浅はかな表面的なデメリットを強調してお互いに非難するだけで、享受できるメリットと払うべきコスト、引き受けることになるリスクについての洗い出しや分析をしたものを見たことが無い。行動を起こすのに、達成する目標と引きうけるべきリスクと払うべきコストを現実的に分析して戦略的に対応できれば恐れるものは無いのだけれど。

基本的な国際経済学の基礎知識としても貿易がほとんどの国の国富を増すことは説明されている。それでもまだ、なんか変だぞと思うのは、そもそも海に囲まれて自給自足でやってきた日本が、日々の生活の中でさえ国境線を奪い合うような環境の下でしのぎを削ってきて、5年先はおろか、来年や来月、明日にだって隣国が国境を越えてやってくるかもしれない国々の交渉や戦略に長けた国々の常識に本当について行けるのだろうかという不安。

日本におけるTPPの問題は、単に物事の良し悪しと言うよりも、普天間基地問題と同様にそれが内政と密接にかかわる外交問題であるがゆえに、政争の具と化して、本来議論すべき内容が議論されず、対外的な外交戦略を持たないままその時の内政の事情でたまたま決定した方向へそのまま突っ走ること。本来はその方向を修正したり補強する為の官僚組織が今は機能していないこと。

農業の事、薬事医療の事、知財の事、個別のメリット、デメリットの話を始めると総論賛成、各論反対となる。WTOからEPA、FTA、さらにTPPへと他国との交渉の方法やレベルが国債環境に於いて変遷してきているなか、政治レベルでのコンセンサス、国民レベルでの方向性の合意、議論がなされていない。世論の形成しようとしない?出来ない国なのか?

生産者としての立場での反対、消費者の立場での反対?韓国とアメリカのFTAは涙の不平等条約?総和としてのメリットとデメリットを検討する。これに加えて双方でのクリティカルな項目についての戦略的な対応を国家として検討して実行することが必要。池田さんはアグレッシブ、今のうちに先進国とした儲けておく。先進国としての先進的なサービス産業を輸出する。結論ありきの議論の展開には反対の立場の人間はついて行けないかもしれない。

堀さんのコメント。賛成も反対もあって当たり前。出来る議論を全て持ち出すことが大切。
何れを選択するにしても、個々の問題についてひとつひとつ戦略的な対応が求められ、たとえTPPに参加しなくとも政治的、否、国民的課題は我々に付いて回り、その戦略上の条件、前提が変わってくると言うだけの話。

池田信夫さんの「日米構造協議の教訓」(http://agora-web.jp/archives/1400555.html)の鋭い読み。日本はそんなに簡単には変われないし変わらない。変ってゆく世界の中で変わらない事のリスクや変わる場合のリスクの分析や対応、何を変えなければならないのか、大事なのはそういった議論をグローバルな世界的な視野をもって日本の国民全体としての国益の視点からすること。

2011年8月28日日曜日

Foreign Country in Japan - Gaishi Kinnyuu / 日本の中の外国 外資系金融

Foreign Counties in Japan
日本の中の外国

After bubble economy, IT bubble and sub-prime disaster, two major problems remained for foreign affiliated financial institutions in Japan.
First one is less attention and less awareness to Japanese business by the head office of global financial center
Second one is lack of responsibility for the management of Japanese local business in the local office as well as global group

バブル経済、ITバブルを経て、サブプライム危機以降、日本の外資系金融には2つの大きな問題が残された。
1つは、世界的な金融グループでの日本のビジネスに対する理解や対応が著しく鈍くなっていること。
2つめは、日本における現地の経営責任を誰も取ろうとしなくなってきていること。

民主党の政治? 日本の政治?

「小沢先生が熟慮されて決められた事ですから!」と平気でインタビューに答える民主党の国会議員。自分の頭で考えている民主党議員は小沢一郎以外にいるのか?5人の代表候補を含めて...

なんでこんな日本になってしまったのだろう。自分の頭で考えて、自分の言葉で語りかけ、それを分かち合って実行していこうと言うのが政治家で、その同志の集まるのが政党のはず。あまりにも清掃を繰り返し過ぎてきたからか。戦前の政友会と民政党の泥沼試合と同じ?あの頃は貴族院も枢密院もあって、まだ抑制がされていたようにも思うが、今の参議院は衆議院のおまけのような存在で、しかも独立した公平な判断も出来ない。

小沢一郎がもう少し近代的なマネジメントと政治手法を学んでさえいれば世の中変わっただろうに。

2010年6月13日日曜日

商人道と武士道

山岸俊男氏の「日本の『安心』はなぜ消えたのか」の一節、「武士道精神が日本のモラルを破壊する」。

確かに新渡戸稲造の「武士道」は苦し紛れに作り上げた虚像の精神論で、日本人の精神の在り様を欧米人にも解りやすく開設できているようにも思えるが、ほとんど自己陶酔の作品。日本の為政者たちの憧れだったり、理想だったりするかもしれないが、決して一般大衆が自ら望んで求めていたようには思えない。あくまで、為政者である武士がその他の民を統率するためのもの。

武士道と呼ばれる倫理体系が成立したころ、すでに石田梅岩の心学や商人道と呼ばれる倫理体系が商人の間では広がっていたという。取引の仲介者としての商人の果たすべき役割と原則となる仁、義、礼、智、の四つにより信を得ることを求めた。

山岸は、武士道のような無私の精神こそモラルを破壊するという。そこには正義も論理も無く、名誉や誇りと言った目に見えないものへの忠誠心は本来、人として大切にしなければならないものを忘れさせ、正しくものを見ること考えることを否定する。自分自身に対して不誠実であることを求める。

武士道を倫理規範とする安心社会の構造と商人道を倫理規範とする信頼社会の構造。
人の心の働きは遺伝子に組み込まれたプログラム、心の道具箱のようなもの。周りの環境とその環境の変化に対応してその反応や行動様式は変化する。
長い間、武士道の倫理規範を以って統治をしてきた相互監視の統治社会から、商人道を倫理規範とする相互依存の信頼社会への移行が必要。臨界質量を多角的な支援で超えることで社会的環境を自ら変化させ、移行させるることが出来るはず。
悪人の評価をするより、信頼できる善人の評価を利用することで信頼の社会はより定着することが出来る。悪人は名前を変え姿を変え、他人を利用してモグラ叩きのように撲滅することはできないし、膨大な社会的費用を要する。善人の評価を積み上げることで社会的な取引コストを劇的に削減することが出来る。

2010年1月13日水曜日

「始まっている未来、新しい経済学は可能か」 (宇沢弘文・内橋克人)の衝撃

高校時代の同級生に勧められていたのを思い出して、正月に帰省した大阪からの帰り、新大阪駅の本屋で探しだして読んだ本である。

長年、外資系金融に勤め、日本の金融市場開放、金融のグローバリゼーション、金融工学の発展・普及、日本のバブル景気、米国のITバブル、そして近年の金融スキャンダルや不祥事に関わってきて、どうしてもぬぐえなかった違和感、あるいはどこかに忘れてきてしまった何か、その正体を明快に暴き出してくれた、そんな一冊だった。

昨年の、池田信夫の「ハイエク 知識社会の自由主義」もそうだったが、一体今まで何を学んできたのか、そんな気持ちにさせられた本である。経済学がそもそも目的とする所、有用性と限界、政治体制や利益集団や対外的な外交手段や戦略との関わりなど、改めてと言うにはおこがましく、はじめて考えさせてもらったと言って良いと思う。

本当に大切なものは、お金では買えないんだよ、と、ごく自然で当り前のことを前提としない、あるいは意図的に無視して、人の合理的な選択を前提とした経済活動を前提とした新自由主義を極端に突き詰めた市場原理主義者のマクロ経済政策は、お金に換算できないもの、ここでは宇沢さんの提唱する社会的共通資本とされる、教育や医療、福祉、労働、金融など、また、古くから生活者を支えてきた共同体としてのムラや農村、大気を含む自然環境などを破壊することで新たな市場としてそこを収益の対象として来た事。またそれらは主にアメリカの国益の為に植民地的な支配権を行使して押し付けられてきたもの、またそれを独立国家としての日本が国民のコンセンサス無しに受けて来た事など。

経済学の基本である、国民経済は不均衡であるということ。そして経済学は、この不均衡とそこから発生する景気不景気の波を事前に政策を駆使することで平準化すること。また、不均衡に発展しようとする経済成長のバランスを取るべく政策を提言すること。

また、マクロ経済モデルで使用する経済統計についても、国際基準で収集したとしても、国によって異なる経済統計数値、その収集方法や異なる経済活動を一つの偏った基準で換算してしまうことの危険。

足りていなかったものは、今さらながら自明である。国や地域、地方、都市、村ごとに異なる風土や習慣、共通基盤として培ってきた生活の場と仕組み、人と人の繋がり。お金に代えられない大切なもの。そう言ったものに対する配慮と言うか、そう言ったものを基本に据えた経済学と言ったもの。または哲学、実践としての経営学も含め、人々の生活に関わる政策。