2010年1月13日水曜日

「始まっている未来、新しい経済学は可能か」 (宇沢弘文・内橋克人)の衝撃

高校時代の同級生に勧められていたのを思い出して、正月に帰省した大阪からの帰り、新大阪駅の本屋で探しだして読んだ本である。

長年、外資系金融に勤め、日本の金融市場開放、金融のグローバリゼーション、金融工学の発展・普及、日本のバブル景気、米国のITバブル、そして近年の金融スキャンダルや不祥事に関わってきて、どうしてもぬぐえなかった違和感、あるいはどこかに忘れてきてしまった何か、その正体を明快に暴き出してくれた、そんな一冊だった。

昨年の、池田信夫の「ハイエク 知識社会の自由主義」もそうだったが、一体今まで何を学んできたのか、そんな気持ちにさせられた本である。経済学がそもそも目的とする所、有用性と限界、政治体制や利益集団や対外的な外交手段や戦略との関わりなど、改めてと言うにはおこがましく、はじめて考えさせてもらったと言って良いと思う。

本当に大切なものは、お金では買えないんだよ、と、ごく自然で当り前のことを前提としない、あるいは意図的に無視して、人の合理的な選択を前提とした経済活動を前提とした新自由主義を極端に突き詰めた市場原理主義者のマクロ経済政策は、お金に換算できないもの、ここでは宇沢さんの提唱する社会的共通資本とされる、教育や医療、福祉、労働、金融など、また、古くから生活者を支えてきた共同体としてのムラや農村、大気を含む自然環境などを破壊することで新たな市場としてそこを収益の対象として来た事。またそれらは主にアメリカの国益の為に植民地的な支配権を行使して押し付けられてきたもの、またそれを独立国家としての日本が国民のコンセンサス無しに受けて来た事など。

経済学の基本である、国民経済は不均衡であるということ。そして経済学は、この不均衡とそこから発生する景気不景気の波を事前に政策を駆使することで平準化すること。また、不均衡に発展しようとする経済成長のバランスを取るべく政策を提言すること。

また、マクロ経済モデルで使用する経済統計についても、国際基準で収集したとしても、国によって異なる経済統計数値、その収集方法や異なる経済活動を一つの偏った基準で換算してしまうことの危険。

足りていなかったものは、今さらながら自明である。国や地域、地方、都市、村ごとに異なる風土や習慣、共通基盤として培ってきた生活の場と仕組み、人と人の繋がり。お金に代えられない大切なもの。そう言ったものに対する配慮と言うか、そう言ったものを基本に据えた経済学と言ったもの。または哲学、実践としての経営学も含め、人々の生活に関わる政策。

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