2010年6月13日日曜日

商人道と武士道

山岸俊男氏の「日本の『安心』はなぜ消えたのか」の一節、「武士道精神が日本のモラルを破壊する」。

確かに新渡戸稲造の「武士道」は苦し紛れに作り上げた虚像の精神論で、日本人の精神の在り様を欧米人にも解りやすく開設できているようにも思えるが、ほとんど自己陶酔の作品。日本の為政者たちの憧れだったり、理想だったりするかもしれないが、決して一般大衆が自ら望んで求めていたようには思えない。あくまで、為政者である武士がその他の民を統率するためのもの。

武士道と呼ばれる倫理体系が成立したころ、すでに石田梅岩の心学や商人道と呼ばれる倫理体系が商人の間では広がっていたという。取引の仲介者としての商人の果たすべき役割と原則となる仁、義、礼、智、の四つにより信を得ることを求めた。

山岸は、武士道のような無私の精神こそモラルを破壊するという。そこには正義も論理も無く、名誉や誇りと言った目に見えないものへの忠誠心は本来、人として大切にしなければならないものを忘れさせ、正しくものを見ること考えることを否定する。自分自身に対して不誠実であることを求める。

武士道を倫理規範とする安心社会の構造と商人道を倫理規範とする信頼社会の構造。
人の心の働きは遺伝子に組み込まれたプログラム、心の道具箱のようなもの。周りの環境とその環境の変化に対応してその反応や行動様式は変化する。
長い間、武士道の倫理規範を以って統治をしてきた相互監視の統治社会から、商人道を倫理規範とする相互依存の信頼社会への移行が必要。臨界質量を多角的な支援で超えることで社会的環境を自ら変化させ、移行させるることが出来るはず。
悪人の評価をするより、信頼できる善人の評価を利用することで信頼の社会はより定着することが出来る。悪人は名前を変え姿を変え、他人を利用してモグラ叩きのように撲滅することはできないし、膨大な社会的費用を要する。善人の評価を積み上げることで社会的な取引コストを劇的に削減することが出来る。

2010年1月13日水曜日

「始まっている未来、新しい経済学は可能か」 (宇沢弘文・内橋克人)の衝撃

高校時代の同級生に勧められていたのを思い出して、正月に帰省した大阪からの帰り、新大阪駅の本屋で探しだして読んだ本である。

長年、外資系金融に勤め、日本の金融市場開放、金融のグローバリゼーション、金融工学の発展・普及、日本のバブル景気、米国のITバブル、そして近年の金融スキャンダルや不祥事に関わってきて、どうしてもぬぐえなかった違和感、あるいはどこかに忘れてきてしまった何か、その正体を明快に暴き出してくれた、そんな一冊だった。

昨年の、池田信夫の「ハイエク 知識社会の自由主義」もそうだったが、一体今まで何を学んできたのか、そんな気持ちにさせられた本である。経済学がそもそも目的とする所、有用性と限界、政治体制や利益集団や対外的な外交手段や戦略との関わりなど、改めてと言うにはおこがましく、はじめて考えさせてもらったと言って良いと思う。

本当に大切なものは、お金では買えないんだよ、と、ごく自然で当り前のことを前提としない、あるいは意図的に無視して、人の合理的な選択を前提とした経済活動を前提とした新自由主義を極端に突き詰めた市場原理主義者のマクロ経済政策は、お金に換算できないもの、ここでは宇沢さんの提唱する社会的共通資本とされる、教育や医療、福祉、労働、金融など、また、古くから生活者を支えてきた共同体としてのムラや農村、大気を含む自然環境などを破壊することで新たな市場としてそこを収益の対象として来た事。またそれらは主にアメリカの国益の為に植民地的な支配権を行使して押し付けられてきたもの、またそれを独立国家としての日本が国民のコンセンサス無しに受けて来た事など。

経済学の基本である、国民経済は不均衡であるということ。そして経済学は、この不均衡とそこから発生する景気不景気の波を事前に政策を駆使することで平準化すること。また、不均衡に発展しようとする経済成長のバランスを取るべく政策を提言すること。

また、マクロ経済モデルで使用する経済統計についても、国際基準で収集したとしても、国によって異なる経済統計数値、その収集方法や異なる経済活動を一つの偏った基準で換算してしまうことの危険。

足りていなかったものは、今さらながら自明である。国や地域、地方、都市、村ごとに異なる風土や習慣、共通基盤として培ってきた生活の場と仕組み、人と人の繋がり。お金に代えられない大切なもの。そう言ったものに対する配慮と言うか、そう言ったものを基本に据えた経済学と言ったもの。または哲学、実践としての経営学も含め、人々の生活に関わる政策。