2009年1月12日月曜日

一度も植民地になったことがない日本

デュラン・れい子さんの「一度も植民地になったことがない日本」(講談社α新書 2007年7月20日第1刷発行)を読んだ。

1942年生まれ、日本初の女性コピーライターで、退職後にスウェーデン人と結婚して主にオランダ在住、現在アーチストとして活動するかたわら欧米のアーティストを日本に紹介している方とのこと。

特に印象に残った話の一つとして、日本の欧州の中での位置づけとして、アジア、アフリカ諸国の中で植民地にならなかったのは日本とタイとエチオピアのみとの共通認識があるとのこと。日本がアジアに対して未だに加害者としての認識を国として持っているのに対して、私としてはとても新鮮な視点で、改めて欧州と言う「もう一つの世界の中心」から眺めた世界の景色の違いに驚かされる。そして、もう一つ不思議に思ったのは、彼らが中国をカウントしていないこと。確かに中国も植民地になっていないのに、彼らにとって中国は特殊な国なんだろうか。

それにしても、欧州から見た世界は欧州と新世界である南北アメリカ大陸、植民地であったアジア・アフリカの諸国、それ以外の国として、中国、韓国、日本のファーイーストなのだろうか。アメリカと違って欧州から見ると日本は極東の国、東欧、イスラムの中近東、アジアとしてのインド、東南アジア諸国、その先のベトナム、中国、韓国、日本となり、どうしても関心は薄くなる。さらに日本は陸続きのユーラシア大陸からさらに海を渡った先の島。今でこそ飛行機で行けばその差はわずかかも知れないが、つい100年ほど前までは陸路で行ける中国とさらにそこから海を渡る日本でその距離感は無限大に近かったのかも知れない。


れい子さんの言うところの植民地になったこと無い国と言う認識をさらに突き詰めてみると、もう一段深い所の日本と言う国の履歴書の特異性が見えてくる。

世界で見ると、植民地になったことのないのは日本、タイ、エチオピア、中国だけでなく、ほとんどの欧州の国々もあげられるが、他民族の支配を実質的に受けた事の無い国と言うのは、日本とアメリカくらいではないだろうか?これは微妙な表現である。多様な民族を抱える国々がある一方で、同一民族が難民となってあるいは他国の征服を目指して移動を繰り返してきた大陸諸国について、国と民族が常に一致していないという事実から、この枠組みでの議論はどうしても日本の特殊性の問題となってしまう可能性が高い。また、アメリカの場合も司馬遼太郎の言う「人工国家」としてその短い歴史の中で、特殊な例とせざるを得ない。

すぐにこれはこうだという結論の出る話ではないので、本日の所は「一度も植民地になったことがない日本」の感想の一つをメモ代わりにと言う事で。

2009年1月7日水曜日

内向きの大国

本日、お気に入りのla dolce vitaさんのブログ「世界級ライフスタイルのつくり方」を読んでいて、内田氏の書いた「内向き」日本についてのブログに反応して、その他にもいくつかのブログを紹介しながら、日本がこれから内向きでもやっていけるのだろうか、という疑問が呈されていて、そう言った識者が多いのだろうかと危惧されていた。外資系企業に長年勤める私の日頃の問題意識に触れるところがあったので、少し整理しておこうと思う。

内田氏のブログの記事は決してそのまま受け取ることはできないような気がしている。皮肉にも取れるし、本気の発言にも取れる。おそらく両方なのだろうと思う。内田氏はそのブログで、次のように記述している。

「日本と地政学的地位も地理学的位置も人口数も違う国」で採用したソリューションの成功と比較することにはほとんど意味がない。
にもかかわらず、相変わらず識者たちは「アメリカではこうである」「ドイツではこうである」「フィンランドではこうである」というような個別的事例の成功例を挙げて、それを模倣しないことに日本の問題の原因はあるという語り口を放棄しない。


また、内田氏が紹介している平川氏のブログには次のように記述されていて、共通の問題意識がうかがえる。

「現実的な政策や行動は、それを忌避するにせよ、連帯するにせよそれぞれの人間の立ち位置の中で行う他はないし、そうである以上限定的なものにならざるを得ない。ただ、その立ち位置を決定するものは、それぞれの人間の、世界観であるし、思想であるべきだ。思想的課題は、緊急かつ現実的な問題に対しては無力だが、そのような問題に出会ったときの立ち位置を決定するためには欠いてはならないものである。それは、ビジネスというものに関して考える場合にも全く同じであると思う。」


要は、発言者自身の立ち位置を明確に議論もせず、ましてや日本と言う国の地政学上の立ち位置を明確に意識もせずに他の国の成功事例のみを引き合いに出して日本と言う国の将来について無責任な発言をする者たちへの警鐘なのではないか、ご両名がそこまで意識しているかどうかは別としても。

日本の中の自分の属する、所謂「世間」の中だけでの発言であれば、無責任に声高に「開国」を叫んでも許されるのかも知れないが、せめて「国民」や「諸外国」に対してその発言に責任を持つべき政治家や識者は、自分の立ち位置を明確にした上で、日本の地政学上の特殊な位置を意識した上での「開国」の戦略を披露していただきたいと思う。

「パラダイス鎖国」の著者である海部美知氏は直近のブログの中で次のように大国の中でのバランスと言うことについて述べている。

日本人すべてが、外向きになれ、とは言わない。逆に、みんな内向きになるべき、とも言わない。これだけ大きな国の中の数多くの人々が、一斉に同じ方向に向くこと、あるいは同じ方向を向くべきだ、と主張することがそもそもヘンなのだ。だから「日本はこうあるべき」という言い方は、私はしないように気をつけている。
過去の一時期、教育の中で、不足していた外向けの人数を確保するために「みんな外向きになろうね」というプロパガンダを張ったこともあるだろう。それが、「貿易摩擦」の時代を経て、トーンダウンして今に至っている。それに、もはや、国定教育の中で行われるプロパガンダだけで人は動かない。
外向きの人と、内向きの人が、ある比率で入り混じっているのが当たり前なのである。どちらに向くべきか、というのは、いまや教育でもプロパガンダでもなく、自分の志向や考え方で決まる。


全くその通りである。問題は、やはり日本人の一人一人が、「自分の志向や考え方」について、どこまで真剣に向き合えるのか、と言うことに尽きそうである。